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吉田万三少年期抄

03年2月12日 更新

元同僚 高橋昭一 

 吉田万三少年が学んだ小学校は目黒区立原町小学校。1クラス62名だった。とても活発で勉強は良く出来る子だけれど、あまり勉強はしない子だったように思う。と語るのは小学校・中学校と同級生だった中野みどり氏(旧姓 斉藤)その頃、担任の方針だったのでしょうか放課後各家庭に集まって4、5人のグループ学習をしたものでした。

 万三ちゃんの家での勉強会の時、問題が解決できなくなって万三ちゃんが「うちの百科辞典をつれてくる」といって父親の吉田資治氏をつれてきてくれたことがありました。みんなで質問ぜめし、楽しく勉強した思い出が残っています。万三ちゃんは忘れものもよくしたが開業歯科医の忙しい母親はとてもおおらかな人でPTAの会にもよく出て来ていたことを覚えています。

 あとでわかったことですが、その頃となりの小学校のPTA会長はあの宇野重吉氏だったのです。

 万三少年はその後目黒区立第九中学校に入学して中野哲史・みどり氏と同級生になり担任の黒坂翔一氏(美術)と出会ったのでした。

中学時代の写真:クリックすると大きくなります 中学生となった万三少年は何ごとにもおくせず熱中し伸び伸びと遊びよく学んだのでした。演劇部員だった万三少年は、九中祭では夜中まで練習して主役を演じきり拍手喝采を浴びたものでした。音楽の教師とも仲良くロシア民謡が好きでよく歌っていました。

 今、仏画を描いている黒坂氏は美術の時間のことを思い出してくれました。課題は人間の顔のデッサンなのに万三少年の作品は顔の輪郭がなく目と鼻と口だけの画面だったので驚かされたことがあったといいます。

 万三少年の中学2年生は充実したものでした。2年B組の推薦を受けて生徒会長への立候補、精一杯の運動をし、みんなにも好かれていたが落選。人並みの挫折も体験した。黒坂家にも友達と一緒に遊びにきてにぎやかにしてくれたことを奥さんは語ってくれました。

 冬の八ヶ岳登山では雪の中を降りてきてずぶぬれなのに気にせず、着替えがないとシャツをズボン代りにはいてみんなを笑わせるのだった。スキーにも好んで出かけ自然にとけこむことをよろこぶ少年でした。この頃の体験がもとになって北海道大学歯学部へ向かわせたのではなかろうか。

 上手な方ではないがスポーツ少年でした。草野球にもよく興じた。黒坂先生は思い出す。万三少年とよく相撲を取った。一度目に組んで負けると二度目は絶対に組まなかった。物事の呑み込みが早く探求心が旺盛な少年でした。

 1961年10月、中学校一斉学力テストが行われた。正義感の強い吉田万三少年は生徒朝会で「校長先生に質問があります」と手を挙げた。「今日の学力テストは先生方の勤務評定につながるのではないか。テスト用紙へのクラス名・氏名の記入は必要ないのでは」。石川誠一校長(東洋大の講師も兼ねていた)は胆のすわった先生だった。万三少年たちにその事情をくわしく説明してくれたのでした。

 こうして進学の時期を迎えた。先生たちは補習授業に反対だった。放課後生徒自身が自らグループをつくって残った。わかる子が代わるがわる先生になって教え合う受験勉強だった。塾をやめて参加する生徒も出るぐらいだったといいます。

 生徒と先生たちが話し合い工夫して、それまでなかった一人ひとりに手渡しで卒業証書を受け取る新しい卒業式を終えて高校へ進学したのでした。


 お話のあと黒坂翔一氏と中野哲志氏の師弟愛あふれるフルートの二重奏を何曲か聞かせていただきました。ありがとうございました。

 狛江市の黒坂氏のアトリエで(2003年1月4日)

語ってくださった方は

担任 黒坂 翔一、暮子夫妻
級友 中野 哲志、みどり夫妻

話を聞いた人

暮子夫人(元美術教師)と
元同僚の足立区住民 高橋昭一

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