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東京・足立区政の2年8ヵ月

活動の記録が教えるもの

02年12月10日 更新

自治体問題研究者 池森秀樹 

 東京・東部の下町で、全国のマスコミが注目するたたかいがおこなわれた。6月20日投票の足立区長選である。これが、国民多くの関心をひいたのは、汚職や腐敗、大きな失政もない、それどころか、区民のためにわずか2年8ヵ月で大きな成果をあげていた吉田万三区長を「共産党系」というだけで不信任し、引きずり降ろすという、過去に例のない暴挙によっておこなわれた選挙であるからだ。

 「区長室奪還作戦開始」−区議会野党だった自民党、公明党、民主党は、統一区長候補・鈴木恒年元助役の擁立を昨年8月に決めたが、その直後にだされた自民党区議後援会ニュースのこの見出しが、こんどの不信任の区民不在ぶりを象徴していた。区長選でも区民から不信任への疑問の声がつよまると、一国の総理が応援に入り、最終日の応援には自民、公明、民主、自由の各党本部の幹事長クラス(公明は代表代行)が並び、都知事までをよぶというたたかいぶりにも、道理ではない、力ずくのやり方があらわれた。

 すでに区民は、一度目の不信任(4月1日)にたいし、吉田区長が区議会解散でおうじた区議選(4月25日投票)において、日本共産党の2人増の12人全員当選(得票も前回の33,673票から50,007票へと5割増)と「吉田区政を守る無党派の会」の新人1人当選という結果で、きびしい批判の意思をしめしていた。それにもかわらず、2度目の不信任(5月13日)を強行して区長を失職させ、今回の区長選挙がおこなわれたわけである。

 区長選挙の結果は、吉田万三候補が、区議選での与党(日本共産党、吉田区政を守る無党派の会、新社会党)の得票合計(61,448、得票率25.8%)の1.85倍となる114,227票(得票率46.4%)を獲得し、大健闘した。選挙戦は惜敗、残念な結果となったが、鈴木陣営は、区議選での野党(自民党、公明党、民主党)の得票(167,498票、得票率69.9%)の0.79倍、131,969票(得票率53.6%)にとどまった。この結果をマスコミは、「自公に衝撃『薄氷の勝利』 基礎票で圧倒のはずが…」(「毎日」6月21日付)と報じた。

 吉田万三氏の得票は、前回区長選で得た70,814票(得票率36.5%)からも44,000票以上伸ばしている。この支持のひろがりの背景には、革新・民主区政誕生いらいの吉田区長の公約をまもっての奮闘、与党として支えてきた日本共産党足立区議団の活躍、そして「足立革新区政をつくる会」と幅広い区民の運動がある。

 私は、このたたかいを追いかけてきたものとして、いままで詳しくは報じられてこなかったことをふくめ、足立での2年8ヵ月がわれわれに何を残してくれたかを中心に記録し、今後の全国のたたかいに寄与できればと思う。

1 地方政治の流れ変えた実践を全国にしめす

 人口64万人を擁する全国で18番目の大都市に革新・民主自治体が誕生したのは、96年9月の区長選でそれまでの古性(ふるしょう)区政与党だった自民、公明、民主の陣営が2つに分裂したという偶然によるものではなかった。足立区は、保守基盤がもともと強いうえ、創価学会・公明党も東日本一の組織力量を誇るところだ。しかし、16年間の自民党を中心とした古性区政は、敬老金を85年に東京23区で最初に廃止した(その後、90年に区民の運動で「生きがい奨励金」として復活)のをはじめ、全国に先駆けて福祉・教育を切り下げる「行革」を実施、その一方で、区市町村では建設事業費がトップ(511億円、関連経費を加えると700億円)となる新庁舎を建設するなど大型事業をふくらませた。これらに反対する区民の運動の積み重ねが、豪華庁舎建設につづくホテル計画で区民の怒りとして爆発、選挙の結果としてあらわれたのだった。

 ホテル計画は総事業費158億円を予定していたが、進出する東急ホテルの出資は2億円だけ。最初の5年間で、赤字は14億円が見込まれているのに、「運営委託費」と称して、東急ホテルに3億円の利益を区が保証するものだった。

 誕生した吉田区政が区民から付託された最大の仕事は、ホテル計画を撤回し、大型事業優先から区民本位の区政に転換することであった。

■公約をつらぬいたホテル計画の撤回からはじまって■

 「できるだけ早く区としてホテル計画撤回を正式に決定したいと考えております」−吉田区長が就任まもない96年10月4日の区議会庁舎跡利用建設調査特別委員会。新区長の凛とした声が委員会室にひびくと、それまで、「品定め」とばかり区長答弁に野次をつづけていた野党議員の言葉はつまり、議場は静まりかえった。自民党議員のこの後の質問では、「(区長が)選挙公約にそれほどこだわるのは当然だが」と受け身にまわった。最初の定例会で、区長への質問が深夜2時までつづけられるような、異常な委員会がつづいていたなかでのことであった。

 野党議員がホテル計画の「撤回の撤回」をもとめた最初の9月定例会は、吉田区長の公約をまもる明確な姿勢を否定できずに終わったが、幹部職員のホテル計画撤回への執拗な抵抗はつづいた。10月9日、庁内でホテル計画を推進してきた跡地利用計画検討委員会がひらかれると、選挙中の「足立革新区政をつくる会」の法定ビラへの「反論」資料が配られ、吉田区長への「説得」がこころみられた(「都政新報」96年10月15日付)。しかしその「反論」も、批判が集中していた東急ホテルを厚遇する問題では、赤字でも委託料を払うのは「当然の対価」と開き直る一方、出資や運営委託契約の改善を交渉している、とする支離滅裂のものであった。

 当時は、青島都知事が破たん信組への税金投入、臨海副都心開発の継続など、公約を裏切ったことへの失望で、区長選のさなかから、「足立革新区政をつくる会」には、「吉田さんも青島さんのようになることはないでしょうね」などの声がよせられていたが、「吉田さんには、日本共産党がついているから大丈夫です」との答えが「なるほど」と区民の支持をひろげていた。吉田区長の就任後は、区長自身がくりかえし、「公約は、区民のみなさんとの約束であり、いささかもあいまいにできない」と、決然とした姿勢をしめしたことが、さらに信頼をたかめた。

 10月18日開かれた庁議で、ホテル計画の撤回が吉田区長から正式に指示された。行政が、一度決めたこと公共事業をなかなか見直すことができないことが、マスコミでも批判の対象とされていたなか、足立の新しい区政の流れがここから出発した。

■大型事業を抑えて福祉、教育、産業振興での成果■

 3度の当初予算編成をへて築かれた足立区政の成果については、全国からも注目された。

 吉田区政が、2年8ヵ月の短い間に、ホームヘルパー予算を2.2倍化し、24時間介護を区内全域にひろげ、「老人介護は足立区を見ならって」(永六輔共著『あがぺ・ボランティア論』)といわれるような福祉の成果をあげてきたこと、乳幼児医療費無料化の就学前までの引き上げ、ボロボロといわれていた学校の修繕をすすめたことで、「子育てするなら足立区で」という合言葉が広がっていったこと、不況対策緊急融資や全国でも珍しい借り換え融資の実施などにより、融資実績は前区政と比較して件数で2.7倍、金額で2.5倍という成果をあげてきたことなどは、区民から幅広く喜ばれた。都内特別区が、都の交付金削減によってあいついで敬老金削減や保育料値上げをすすめるなか、70歳からの敬老金(生きがい奨励金)支給をつづけているのは23区で足立区だけとなった。また、保育料も据え置いてきたことで、他区にくらべ年10万円以上安くなり、ほかの3つの区で、「足立区が値上げしないなら据え置く」と、足立区は他区にも大きな影響をあたえてきたのである。

 「吉田区政になって、足立区に住んでいる、と胸を張って誇りをもって言えるようになった」という声が区民のなかにひろがっていった。

 いま、全国の自治体は財政危機にあえいでいる。足立区でも吉田区長は、就任したとき約2,000億円の財政規模で、区債残高が1,360億円以上(96年度)に膨れ上がるなど、苦しい財政状況を引き継いでいた。そのなかでどうやって、こうした成果があげられたのだろうか。それは、なにより財政悪化の原因そのものに、吉田区長がメスを入れたことによる。

■財政再建と区民生活の擁護を両立■

 地方自治体の多くでは、いまの財政危機を「理由」にして、「財政健全化」などの名による住民サービス切り下げが横行している。しかし、地方財政危機の原因は、アメリカに約束した10年間で630兆円というゼネコン奉仕の「公共投資基本計画」で拍車がかけられた巨額の公共事業の多くが、自治体に分担され、それらを起債(借金)によってすめてきたことによる。全国で地方債残高がふくれあがったとき、ちょうど足立区でも区債残高が91年度末の618億円から95年度末の1,313億円に2.1倍以上に膨れ上がっている。この間の区債の急増の要因は、関連経費をふくめ700億円をかけた豪華庁舎の建設をはじめ、大型事業を中心とする「第3次基本計画」(93年策定)を、バブルが崩壊するなか、莫大な起債発行によって遂行したことにある。94年度予算で、単年度では最高となる248億円もの起債をおこなった要因について、予算編成をおこなった区企画部の説明でも「(第3次基本計画の)計画事業を中心とした大型事業を着実に推進するため、起債の活用とともに各種積立金の活用など財源措置を積極的に行なうこととした」(「足立区の財政」95年7月)と記されている。

 吉田区長は、就任後の財政計画で、2,000億円程度の予算規模で最大事に600億円を超えていた公共事業費を今後、毎年200億円程度におさえ、起債発行も年間100億円程度に抑えていく方針をまず、明確にした。そして、「区民生活重視型」を今後の区政の基本姿勢とし、福祉や産業振興を重点にとりくんでいく方向を明らかにした。こうして、削減した公共事業費を、福祉や教育、商工対策にまわしながら、財政再建も同時にすすめていく道筋をつけたのである。

 投資的経費の規模を600億円台から200億円台におさえながら、公共事業の内容を福祉施設整備や学校改修をはじめとした教育など生活密着型に重点を移したことで、区内業者への発注額は逆に、95年度の74億円から98年度の91億円に23%も増やしたことも特筆すべきである。

 足立での吉田区政のとりくみは、短い期間であっても、地方政治の流れを変えるなら自治体本来の姿をよみがえらせることができることを、全国にしめしたものといえる。

2 予算編成はどのようにすすめたのか

 区政の方向を決めていく予算の編成は、区長が代わって方針をしめせば自動的にすすんでいくわけではない。「逆立ち政治」をすすめる政府や東京都からの統制や補助削減、1975年の区長公選制復活いらいの自民党区政がきづいてきた住民犠牲の予算編成のシステムなど、抵抗は根深いものがある。吉田区長、日本共産党区議団、「足立革新区政をつくる会」と幅広い区民の運動がそれぞれ力を発揮し、困難を突破しながら、公約を1つひとつ実現し、区政のかじとりをすすめてきた経過がそこにはある。

■前区政を引き継ぐ幹部職員のなかで■

 96年10月22日、吉田区長になって最初の当初予算編成方針となる97年度の行財政運営方針がしめされた。区長の「命に依り」、助役名でだされるもので、依命通達と呼ばれるものである。このなかでは、憲法、地方自治法の精神ともいえる「住民が主人公」の立場にたちかえること、地方自治法第2条のなかにうたわれた「住民及び滞在者の安全、健康及び福祉を保持する」ことに、区政が全力をあげたとりくみをおこなうこと、区民生活重視型の区政を今後の行財政運営の基本的な姿勢とすることなどが高らかにうたわれた。

 この通達が庁内に配られると、区の多くの一般職員は、長い運動のすえに誕生した区民のための区政が動きはじめたことを改めて実感し、感動をもってこれを読んだという。

 区民本意の区政への第一歩となった97年度予算には、乳幼児医療費無料化の拡充準備、不況対策緊急融資、商店街空き店舗対策、私立幼稚園保護者負担軽減補助の都削減分の復活、初めての平和予算などの吉田区長の公約が盛り込まれた。しかし、その実現にいたる予算編成過程には、吉田区長と幹部職員の間での「攻防」があったと専門紙で報じられている(「都政新報」97年3月4日付)。

 今回の区長選で当選した鈴木恒年氏は、前古性区政後半の7年半、助役をつとめ、豪華庁舎建設やホテル計画をすすめたが、吉田区長が就任して96年10月に助役を辞任するさい、幹部職員を前にしたあいさつで、「いままでやってきたことは正しかったという誇りをもって仕事をつづけてほしい」と言い残していた。また、鈴木恒年氏は、助役辞任後、東京23区が共同してつくる特別区人事委員会常任監査に就任してにらみをきかせていた。

 足立のローカル紙が区役所の部・課長に実施したアンケートの結果を報道したが(「足立よみうり」99年1月3日付)、回収率40.7%で回答した46人のうち、「吉田区政(2年間)は足立区にとって、マイナスになったか」、「プラスになったか」の選択肢に、44人(96%)が「マイナスになった」と回答している。もちろん、このアンケートに回答しなかった6割もの部・課長がおり、4割の回答者の部分だけで判断できないことはいうまでもない。しかしこれは、一定の傾向をしめすものではある。こうした幹部職員の状況のなかで毎年の予算編成をおこない、区民本位の区政への舵取りをすすめてきた吉田区長の辛労は、容易に推測できる。

■区民の要求と運動から予算をつくる■

 自治体の首長は、有権者から直接選挙で選ばれるいわゆる「大統領制」であり、最終的には、「予算編成権は長にあるのだから(指示に従うのは)当然」(予算課長・「都政新報」97年3月4日付)ということになる。しかしそれも、区民の世論と運動が背景にあって、はじめて可能になってくることである。

 与党の日本共産党区議団は、吉田区長への予算要望をまとめるのに先立って、幅広い区内各団体をたずね、懇談をおこなって要望を聞いた。野党時代もおこなっていたことではあったが、与党として直接区長に予算をプッシュできる立場となって、懇談に応じてくれる保守的な団体や業界団体が非常に増えたそうだ。これには、自民党や公明党があわてたという。彼らは、これまで支持基盤としていた団体の要望を定期的に聞くということさえ「やったことがなかった」ようだ。共産党区議団は、出された要望をまとめて吉田区長に手渡し、予算が最終的にまとまるまでのその後の協議でも、差し迫って必要な緊急対策や区民の願いの声を区長に伝えた。

 吉田区長も、忙しい公務をぬって、区民からの要請にはできるだけ直接会って話を聞いた。「区長室の扉が開いた」と喜ばれた。吉田区長へのある母親からの一通の手紙が、公園改修計画で予定されていた桜の木の伐採を変更し、地域の親子に喜ばれる公園整備として実ったこともあった。

 日本共産党区議団が、とくに心を砕いたのは、予算要望をもっている区民や各団体が関係の部署と直接に交渉がもてるよう援助をおこなったことである。それは、区の各担当部門が住民の要望におうじて各担当部門での予算要求をまとめ、予算課にあげていくようにしていくことが、区役所全体を下から変えていくうえで重要と考えたからだ。

 また、「足立革新区政をつくる会」は、区民や各団体から出された要求を予算要望にまとめ、実現のための署名運動をおこなって、各部交渉にそれをもちこんだ。とくに、野党の支持基盤になってきた保守的団体などの要求も、とりまとめでは重視された。

 こうして実現した予算ほど、議会での予算可決をもとめる運動に、関係した幅広い区民が立ち上がることになっていった。

■区民本位の予算ができるかどうかはたたかいを左右する■

 そもそも、予算を可決しての「不信任」は野党にとって大きな矛盾となる。なぜなら、予算こそ区政の基本姿勢をしめしたものであるからだ。3度も当初予算を可決しての吉田区長不信任に批判が集中したのも当然のことである。

 そこから、区民本位の予算をつくらせない「抵抗」が、さまざまなかたちであらわれることになる。とくに、野党の統一した不信任戦略が99年4月のいっせい地方選挙と時期を重ねることに定まってくると、予算編成自体をめぐるたたかいはますます激しくなった。

 98年に、不況がいよいよ深刻化すると、公約の実現とともに、「不況の荒波から区民をまもるのが区政の大きな役割」(吉田区長)となってきた。区民からの請願や署名も数多くよせられてきた。こうしたなか吉田区長は、12月補正予算として、商店街発行のプレミアム付き商品券の助成、仕事拡大と福祉の充実の一石二鳥となる高齢者住宅の改造補助の充実や保育園などの修繕、借り換え融資の予算化など、事業費総額39億円となる不況対策を提案した。さらには、まったく不当なことに、この不況対策予算の審議が、野党によって年越しとされるなか、吉田区長は、区民のためになしうる不況対策はすべて講じていく必要があるとの見地から、12月補正予算編成後に生まれた財源をつかって、必要な中小企業融資、学校修繕などに対応できるよう、3億円の追加不況対策を提案した。

 日本共産党区議団の針谷幹夫幹事長は、「これらの補正予算の提案までにも大変な苦労があった」と、そのときをふりかえる。幹部職員に区民が不況対策をもとめていることを理解してもらうのに「机のたたき合いにまでなった」という。さらには「『区長の命令なら聞くが、議員から指示を受ける筋合いはない』とまでいわれた」(針谷幹事長)そうだ。

 この幹部職員のところには、区長不信任で中心的役割をになっていた野党議員がたびたびおとずれていることが目撃されている。結果としてもし、区民のつよい願いであった不況対策予算が提案できていなかったら、そのことが「区長としての能力無し」として、野党の不信任の理由にされていたことは想像に難くない。

 区民本位の予算ができるかどうかは、革新・民主自治体をまもり発展させるたたかいを大きく左右するものである。

3 2年8カ月の「不信任」策動とのたたかい

 吉田区長への不信任議決が強行された翌日、99年4月2日の東京新聞社説は、「野党側は、なぜ足立区のように保守地盤が固いとされてきた地域で共産党系の区長が生まれたのか、じっくり考えてみるべきである」として、「500億円もかけた豪華な庁舎建設、旧庁舎跡地へのホテル誘致計画など、区民の生活実感からかけ離れていた区政への不満が、区長選挙での保守陣営の分裂とかさなったためではないか。その点への反省が先」と論じた。野党は、「その点への反省」は何もなく、単に「区長候補を統一さえすれば必ず勝てる」として、吉田区長の就任直後から「長く区長においておくつもりは明確にない」(自民党区議の96年10月31日・決算特別委員会での発言)と、最初から「不信任」の機会をうかがっていた。そして、区長の公約実現や区民のための仕事をあらゆる手段をつうじて妨害しておいて、「少数与党では何もできない区政」という攻撃をおこなうことを基本戦略にしてきた。

 この間、97年3月議会を最初の正念場として、いくども区長不信任の危機にさらされたことがあったが、区民の世論と運動でこれらは突破された。日本共産党区議団と「足立革新区政をつくる会」は、これらのたたかいのなかで、区民の要求にしっかりと依拠し、革新・民主区政を区民とともにのまもりぬく方法を学んでいった。

■公約をまもりぬくことの重要性■

 党区議団の大島芳江団長は、吉田区政が誕生してからの活動について、「初めて与党になったわけですから、まさに手探り状態から出発しました」と語っている。

 「最初は、議員団にも率直にいって『野党を刺激しない方がいい』という議論もあったんです。議会の折衝でも、妥協して通してもらった方がというような……。でもやっていくうちに、そういう内容は区民には説明できない『妥協』をもとめてくるのだし、少数与党で議会をのりきるには、世論を味方につけるしかないということに気づきました。とくに、ホテル計画撤回など吉田区長の公約にかかわることは、それで吉田万三さんが区長に支持されたわけですから、議会では少数であっても、区民のところでは区長が多数に支えられるという基本にかかわることなんです。もちろん区政には数多くのことがありますし、国や都からの圧力などもありますから『妥協』すべきところもあるとは確かです。しかし、大義の旗を握って放すべきでない肝心なことは必ずおさえていく、そうすれば、議会で無法をおしとおそうとしても、区民のところに知らせて、野党を孤立させることができる、そういうことが段々わかってきました」――大島団長は2年8ヵ月のたたかいのなかで、議員団がもっとも成長したのは、最初の不信任の危機、97年の3月議会をのりきったときであるという。

■保守層をふくめ、住民の世論と運動に訴えて事態を打開■

 最初の予算議会の開会日、97年3月3日が近づくと、区役所内部には「予算否決で区長不信任」との情報がひろがり、議会がはじまってもいないのに各課で否決のための実務準備がはじまってしまう状況になっていた。町会の役員のなかでも「連合町会長がきて吉田区長不信任を出すといってきた」などの話がされるようになった。もともと早期不信任で構えていた区議会公明(14人)に加え、自民党も、吉田区長の就任いらい慎重派(区議会自民党17人)と強硬派(自民党区議団7人、自民党平成会3人)の3派に分かれていたのが97年2月に一本化して統一会派になったことで、野党全体が強硬なほうに引っ張られていた。

 野党はこのほか、市民連合(民主党、生活者ネット)の4人で計45人。与党は日本共産党10人と新社会党の1人で11人であった。これでは、予算可決に必要な過半数におよばないことはもちろん、4分の1を超えていないので、不信任議決を阻止することもできない議席(不信任の可決は3分の2以上の出席で4分の3以上の賛成による)である。

 「議会のなかのたたかいだけではどうにもならない」(大島団長)――これが、与党議員団の論議の結論であった。

 日本共産党区議団と「足立革新区政をつくる会」は、早朝の駅頭宣伝、毎日の議会傍聴、全戸へのビラ配布、辻つじでのハンドマイク宣伝、野党議員の支持基盤でもある各界の有力者との対話、各党議員要請などに連日、全力をあげた。宣伝の内容も、与党の立場からも野党時代の「対決型」の延長ではなく、議会内での多数派形成の観点から、住民の利益をまもる住民自身の視点にたって、住民の利益の背を向け、党利党略の立場に立つ野党を事実にもとづいて批判した。

 会場にあふれる1,500人が参加した3月21日の区民集会は、

  1. 福祉、教育、区民生活を守る予算の成立を、
  2. ホテル建設の復活を許さず、区民のための跡地利用を、
  3. 公約実現の立場をつらぬく吉田区長の不信任反対

をスローガンにかかげ、世論をいっそうひろげる契機となった。

 予算の区民本位の中身とその予算を否決しようとすることの道理のなさ、そして区民生活のあらゆることに深刻な影響がおよぶことが、宣伝と対話で区民にひろがるにつれて、「予算をとおしてもらわないと困る」、「公約をまもっているのに不信任とはとんでもない」との声が、野党の議員の支持者のなかからも聞かれるようになっていった。建設業界の代表、商店街組合、社会福祉協議会の代表、私立幼稚園協会、障害者団体家族会、町会長などが、自民党をはじめ各党に予算成立の要請に動く状況となった。

 こうしたなか、まず、野党の一角の区議会公明が崩れた。「区長不信任、予算否決」では、97年7月の都議選に悪影響となるとの判断で、「賛成」にまわった。そして、自民党は予算議会最終日の3月31日まで議会を長時間休憩させて論議をつづけ、予算は「否決」、区長辞任勧告決議案を提出との結論をかためていたが、31日深夜、会期切れ3分前の11時57分、自民党から2人、市民連合から1人が賛成にまわって、97度予算は1票差で劇的に可決された。区長辞任勧告決議案は取り下げられた。

 大島団長は、後に「赤旗まつり」(97年11月1日、「生きいきトーク 大集合!日本共産党の地方議員団」)で次のように語っている。――「区民のみなさんとともに予算を成立させたこのときの感動を、私は生涯忘れられないと思います。……私たち足立区議団は、少し大げさな言い方をすれば、議会ごとに選挙戦をたたかっているようなものなんです。この1年余りのたたかいをつうじて、私たちは区民を信頼し、区民とともにたたかうならば、必ず道はひらけるということを確信しました。」――この立場での奮闘は、少数与党のもとで事態を打開する足立区議団の基本姿勢として堅持された。

■反吉田陣営からの徹底攻撃への構え■

 足立革新・民主区政をみんなでまもろうと、区民の集会では必ず歌われた「この町から」を作詩・作曲したシンガーソングライターの橋本のぶよさんは、この歌をつくった思いを次のように語っている。

 「(吉田区長が当選したのち)覚悟はしていたものの自民・公明・民主による議会での区長攻撃は私の想像をはるかにこえるものでした。じっと目を見すえたまま身動き一つしない吉田区長を傍聴席から見ているうちに、その姿が、涙でボヤけることが何度もありました。『このままではダメだ、すぐにつぶされてしまう!』。そのうち傍聴に通う支持者の中から、精神的にやられてしまう人や、胃痛を訴える人が続出しました。何とかしなければ、区長を皆をはげましたい!私にできることは歌しかない!……」(「しんぶん赤旗」99年6月1日付)。

 それほど、野党の区長攻撃はすさまじいものだった。吉田区長が当選して間もないころには、「区長が代わったのだから、その権限を発揮すれば、何でもできるのでは」という意見も「革新区政をつくる会」の議論の一部に出てきていたというが、そうではないことは時間とともに事実でつかまれていった。

 その最大の経験は、ホテル計画を撤回した後の、これに代わる跡地利用計画をつくる仕事だった。

 吉田区長は、ホテルに代わる旧本庁舎の跡地利用計画を区民の意見を集約して決めるため、97年2月、本庁舎跡地利用対策審議会に答申をもとめて諮問をおこなった。同審議会に諮問するという方法は、前古性区政のもとでホテル計画を推進していた幹部職員の進言によるものだった。本庁舎跡利用対策審議会は、93年1月にホテル計画を答申した審議会だったが、委員の任期は切れて、条例のみが残っているという休眠状態だったものだ。条例上は大まかな構成がきめてあり、議会代表なども一定加える(すなわちホテル復活を唱える委員も加える)規定となっていた。このことで、委員選考の「票読み」が始まることになった。

 委員の任命権者である吉田区長は、条例で定めなどがある一定数の委員をのぞけば、当然のことながら諮問の趣旨にそって、「ホテルに代わる跡利用計画についてお知恵を出していただける方」(吉田区長)を選考する方針であった。ところが、吉田区長の選挙での公約により新たに公募で選ぶことになった区民代表委員6人について、幹部職員で構成する選考委員会は、まったく異なる選考をおこなった。「選考委員会が示してきた人選は、ホテル建設派の考えの委員」(吉田万三氏、「読売」99年5月15日付)だったのである。

 選考委員会は、あくまで区長の決定を補佐する予備的人選の場である。最終的に、吉田区長は、公約をまもる立場からみずから応募論文を読んで、人選をおこなわなければならなかった。

 この経過がどこからか野党につつぬけとなり、マスコミに「差し替え」などと報道され、97年3月議会での不信任策動へと一気に発展していくのである。

 日本共産党区議団は、こうした経験をへながら、反吉田陣営が、隙あらば区長を追い落とそうと、あらゆる機会をねらっている足立のたたかいのきびしさを学んだ。そして、さまざまな策動に断固としてたたかう構えを築いていった。公募委員問題では、逆に吉田区長の公約をまもる立場を攻勢的に宣伝して理解をひろげた。97年10月に、審議会が13回にわたる議論をふまえホテルに代わる跡利用計画の案を答申しようとすると、野党は審議会条例の廃止を強行したが、この横暴を徹底して宣伝し、区民の怒りをひろげた。

 野党の攻撃にたいする最大の備えとしては、「不信任をおそれず、『もし強行するなら、われわれはいつでも解散してその暴挙を区民に訴え、区議選をたたかう準備ができている』という構えを確立したのがいちばん大きかった」(日本共産党区議団・針谷幹事長)という。97年3月議会で市民連合(民主党)の幹事長が最後に予算賛成を決めたのは、議員の任期を2年も残して解散だけは避けたかったためと、野党内の矛盾が報道されている(「都政新報」97年4月8日付)。97年12月には、保守的立場の人もふくむ区民によって、吉田区長を支える与党の議員を増やすために自分たちの代表を区議会に送ろうと、『吉田区政を守る無党派の会』が結成された。

 解散を恐れて足並みのそろわぬ野党は、「日程が決まっている区議選に解散選挙を重ね合わせたのも身内のご都合主義」(「毎日」99年4月2日付)と批判されたように、結局、議員の任期満了時に区長不信任をおこなうこととなったのである。

4 吉田区長のがんばりと与党の役割

 野党が、区長の4年の任期を待たずに道理のない不信任を強行したのは、年月が経てば経つほど吉田区政が前進し、吉田区長の「住民こそ主人公」とする姿勢が区民の間に定着してしまうことを恐れたからにほかならない。

■もっと時間があれば……■

 吉田区長の、温和でしかも区民をまもる確固たる姿勢をもちあわせた人柄は、立場を超えて区民の人気の的となっていた。97年は、ちょうど戦後の地方自治がととのってから50年目にあたり、区内各団体や学校などの50周年行事などが例年に比べても多かったそうだが、吉田区長がこれらの会合に出席し、時間の許すかぎり最後までいると、参加者からは大変喜ばれた。なかには、「出不精だった」前古性区長と比較して、「今度の区長はいい」という声さえでるようになった。自民党議員のなかには、吉田区長と同席した団体のお祝いの場でも、公然と区長批判をする者もいたが、出席者のなかでは逆に浮き上がってしまう状況だった。日が経つにつれ、野党の議会での「追及」では、「区長は人柄はいいが、後ろについているの(日本共産党)が悪い」といった発言すらでてきた。

 吉田区長は、就任後早い時期に、忙しい公務ととめどもなく入ってくる議会審議の日程をぬって、区の出先のすべての職場をまわった。「10数年この職場にいるが区長がきたのは初めてだ。みんな現場から戻って玄関前にならんで区長を出迎えた。現場の職員を大切にするこういう区長を大事にしなくちゃと思った」――職員から、こんな感激の声がよせられた。一方、区民からは、出先の事務所の対応が変わって親切になったとの感想が多くよせられるようになった。「とくに指示したわけではないんだけど」――吉田区長は、こう語っていた。

 前古性区政時代には中断していた区民のところに区長がでかけていく「区政を語り合う会」も再開した。市民団体が自主的に企画した「移動区長室」にもすすんで出席した。そのほかにも、招かれた会合には、できうるかぎり出席した。

 吉田区長の人気の広がりに、庁内では、「区長選で獲得した7万票の1.5倍はでる」との話が、就任後1年もしないうちに評判となっていた。

 吉田区長がさまざまな会合で保守的基盤の有力者からよく要望や話を聞き、これを区政に生かしてきたことは、野党にとっては大きな脅威だった。

 重要であったのは、その野党の「不安」のとおり、野党が道理のない不信任を強行したとき、「不信任はおかしい」とみずから声をあげたのは、吉田区長に直接、接してきたその有力者たちだったことだ。選挙戦が近づくにつれ、吉田区長への人身攻撃やデマ攻撃は卑劣を極めたが、この人たちに動揺はなかった。区長選では、「裏切り者とののしられてもいい」と、吉田区長応援のマイクを握る人もあらわれた。

 しかし、吉田区長と区民とが接する「区政を語り合う会」などの区内全地域での本格的な開催の企画は、これからのところだったという。それだけに、残された任期であった1年4カ月の時間があればと、くやまれる。区民と吉田区長との直接の対話がひろがればひろがるほど、理由なき区長不信任にたいして、自分たちの代表にたいする攻撃ととらえるさらに大規模な区民の反撃が自然発生的に起こっていたであろうことは、容易に想像できる。

 地方自治法で自治体の長は、直接選挙で選ばれる。であるがゆえに、議員選挙の議席数と異なる結果も生じうる。だとしたら、この直接民主主義をどう生かすのかは、少数与党での革新・民主の自治体をまもる共通した課題となるであろう。

■足立区政に責任を負う党への成長■

 区長選挙で敗れたとはいえ、足立の日本共産党区議団と地区党組織、そして民主陣営は、次に生かすことのできる大きな財産を残している。

 区議団の活動の質的たかまりについては、いくつかの実例をつうじてすでにみてきた。もっとも大きいのは、区政全体について与党として区民に責任を負う立場で、あらゆる問題に政策と方針をもって対処してきたということだ。「1年が数年にも思える濃密な時間を過ごしてきた」(大島団長)というのは実感だろう。必要に応じて吉田区長と協議を行なうとともに、行政を代表する吉田区長にはおのずから限界のある野党との論戦や、全区民への宣伝、対話などでは、与党議員団としての独自の役割を果たしてきた。

 吉田区政を支える日本共産党区議団の活躍にたいし、区長不信任・議会解散を受けての4月の区議選で、2人増の12人全員当選、得票で1.5倍の評価を区民が与えたのは当然である。

 日本共産党足立地区委員会には、吉田区政の誕生以来、日常的に区政問題を考える区政対策委員会が設けられ、議会対策だけでなく、区民運動、選挙準備などが総合的に検討された。そして、区内の日本共産党支部には、定期的に区政の状況が報告され、問題が提起された。

 支部では区政の問題が常に論議され、責任を持つ地域で多数派になろうと、支部主催で区政報告会を開き、区議会報告ニュースを独自に全戸配布したり、支部としての定期的なハンドマイク宣伝にうってでた。また、地域の有力者への系統的なはたらきかけをおこなったり、「しんぶん赤旗」の読者をふやすなど、「支部が主役」となって吉田区政をまもるたたかいがすすめられた。

 そして、「足立革新区政をつくる会」を構成する各民主団体もそれぞれの組織の区政への要求をかかげ、「吉田区政をまもるために」ということで、たたかいの局面ごとに会員が増え、さらに、たたかいで鍛えられたという。

 宇留野一廣・党足立地区委員長は、この2年8ヵ月の足立地区党と民主勢力の変化について、「かつての野党のときは、率直にいって選挙以外のときは区政については区議団が頼り、というのがありました。しかし、たたかいのなかで、区民との関係でいえば、与党は区議団だけではなく、党支部も与党なら、『足立革新区政をつくる会』に参加する団体も与党だ、区政に責任を負っているんだという立場で、吉田区政のことを区民に知らせ、また区政への意見も聞いて、区民からの生活相談も党支部や『会』に入ってくるようになりました」と語っている。

 また、いまふたたび野党となった日本共産党区議団は、行政全体の分析、住民運動との結合や議会での多数派形成など、与党時代に学んだ教訓は、野党としての議員団活動を高い水準でおこなっていくことに生かしていけると討議を深めている。

 足立区政の2年8ヵ月は、東京の下町に「政権をになう党」、「政権をになう区民の共同」を育ててきた。それは、次期区長選はもちろん、「住民が主人公」の自治体づくりをめざす全国の運動に大きな糧となるであろう。

(「議会と自治体」第16号掲載)

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